一昨年前の初夏、

母が
癌の手術後もchemoによる治療が必要で
どんどん痩せつつも
気合いでがんばってた頃に
願をかけていただいたお守りとお札を
お返しに行った。






その寺は
まぁ、
お地蔵様が
願い事を叶えるために
その具体的なひとや場所に出向いて
行くという
そのために
わらじを履いている
という
遠方からも来る人の多い
寺である




最初に
その寺に行って
説法を聴いたときは
具体的に
芸能人の名前をあげて
あのひとも来た
この人も来た

まぁ
商売的な感じを受けて
正直
あほらし

思ったのであった。


しかし
その翌々年に
藁にもすがる想いになった
操られたあほは
再び赴き
自分の分と
母の分と
家にお札を
いただいて(買って)
帰った。





今年
母は亡くなり
郵送でもよかったのであるが
近所に
大好きな寺があるので
赴いた。
お守りやなんかを返すひとは
金を払って
説法を聴かなくていいが
一応
御朱印だけいただいた。



地蔵様に手を合わせることなく

そそくさと
近所の寺に向かったわたしは
罰当たりである。



母は
あのお守りに
何の願いをかけていたのかは
知らない。









近所の寺には
初めて行ってから
思い返すと
毎年行っている。



最初に訪れたのは
当時の彼氏と。




寂れていて
ひとが少ないのが良くて。





受付には
このひとに逢うってだけでも
癒されるおばあさまがいつもいらっしゃって、
一昨年まえには
この方に御朱印を書していただいた。
しかし
今年は
おじいさんが座っていて
嵐山あたりの
観光客の多い神社仏閣がよくやる
御朱印を印刷してあるやつが
束になって
絵はがきの隣に置かれてあった。



年齢的に
ここに座っていることができなくなったのか
他界されてしまったのかは
知る由もなく
何となく悲しくて








もう
紅くはならないよ
って感じに
黄色のものが多く
雨が降ったら
散ってしまいそうだけど



竹林は
変わらず
しゃー
とか
さー
とか
さらさら
とか



すぅっと
どの木よりも高くまっすぐ伸びていた





30分ほどいましたが
貸し切り状態でした












翌日も
東福寺に行こうかと
身支度をしたのだけれど、
こんなに
動けるときにとばすと
反動が来そうなので
止めておきました。


もう
今日行っておかなければ
また
来年まで
この季節はやってこないのだろうけれど











母関連の
お守りお札のお返しは
まだ
何件か残っているので































電話帳の中に




「母」
ってあって



こうでいいのかなとか
たくさん聞ければいいのに。




死んでまで
頼られるのは嫌かな。



ちょっとしたことが多いんだけど、
あの端切れ使っていいの?
とか
あんなのオヤジさんに着せてていいの?
とか
どこで干し椎茸買ってたの?
とか






もっと
表現できないことが溢れて



困る。